みかん時々坊っちゃん

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葉隠で山本常朝が「秘める恋」の偉大さを語っている

見せるだけが恋ではない

 現在、「ありのまま」であるとか「飾らない」であるとか、本来の素の自分をさらけ出すことがよいという風潮がある。しかし、日本人の美意識は、心のうちに秘めるというのが本来である。それは、恋愛においてもそうである。現代の日本人は、「愛している」・「好きだ」とか恋愛において自分をさらけ出しすぎているが、そうではなくて、心に秘めることこそ真の恋なのである。

恋の至極は逢わぬこと

 そして、およそ300年も昔の人間がそれを喝破している。葉隠」の山本常朝である。

 「葉隠」は、山本常朝による武士道の聖典であり、人生の指南書である。「新篇葉隠」によると、「『武士道の聖典』とされており、激烈な狂気を例産している一方で、きわめて常識的な処世の知恵をも教えている『人生の指南書』」でもある。

 「新篇葉隠」によると「葉隠」は人生の指南書でもある。そして、人生の指南は恋愛の指南にも及んでいる。それが、「恋の至極は逢わぬこと」(新篇葉隠による)という一節である。その一節を下記に記述する。

 「先ごろ、集まった人たちに話したことだが、恋の極まるところは、心に秘めた恋であると見きわめた。叶えてしまえば、それだけのことで、つまらないものになってしまう。一生、心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋であろう。歌に、『恋死なむ後の煙にそれと知れ 終ひにもらさむ中の思ひを』とある。私がこれこそ至上の恋であろうといったところ、感心した人たちが四、五人いて、『煙仲間だな』ということになった」

山本常朝から我々への贈り物

 この言葉は、山本常朝から、我々つまり「非リア充」への贈り物なのではなかろうか? 

 この一節は、山本常朝自身を納得させるものでもあり、武士という社会でうまくいきていくために必要な生き方を示している。

 武家では、恋愛からの結婚はなかったし、それが当たり前であった。武家は家同士で話し合って結婚を決めていた。そして、それは当たり前であった。自由恋愛による結婚を現代日本人が当たり前であるとするように、その当時の武士にとって、家同士で話し合って結婚を決めるのは当たり前であった。

 山本常朝についてもそれは例外ではない。そういった武家の掟の中で優先させるべきは自己であるはずがない。「心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋」と言い切った方が、武家社会の中でうまく生きられるし、自己を納得させられる。そうこれは、自己の恋愛より優先させるべきことがある中で、山本常朝が語った言葉なのである。

 「非リア充」にも、自己の恋愛より優先させるべきことがある。それは、社会から抹殺されないことだ。「リア充」は、どんなに恋愛をしても正当化されるし、社会的に許される。しかし、「非リア充」はそうではない。学校という社会の中で「非リア充」が恋愛をしようものなら、彼はそこから抹殺されるであろう。学校という社会を出た後も「非リア充」は恋愛にうつつをぬかしてはいられない。恋愛にうつつをむかしていては社会で自己を守れないからである。「非リア充」は、「リア充」が社会を悠々と泳ぎ さらに恋愛をしているのを横目に見ながら、自己を守るだけで精いっぱいなのである。

 そんな我々にこの一節は、ひどく心にしみる。そう恋愛だけが全てではないと、固く誓って生きている「非リア充にとって、心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋というのは生き方の指針になる言葉である。そして、結果的にそれは日本人の美意識に合った生き方ともなるのである。