「非リア充」異性怖い病罹患
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未だに続く中国当局によるチベット仏教弾圧!? 「2014年度版国際宗教自由報告書」による報告
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好きな女を守ると決めた男の物語「嘘つきは殿様のはじまり」
Amazon.co.jp: 嘘つきは殿様のはじまり 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス): 福井 あしび: 本
大嘘をつかざるを得なかった女とその女を守ると決めた男の物語
「男性は1日平均3回もウソをついている!一番多いウソは「もうやったよ」:英調査 - IRORIO(イロリオ)」によると、イギリス人男性は52%が一日平均3回、女性は57%が一日平均1回は嘘をついているようだ。理由は、男性が「うん、もうやったよ」・「ごめん、電波が入ってなかったんだ」など、女性が「元気よ」・「今そっちに向かっているわ」などと本当に些細なことだ。
人間、生きていれば嘘をつくこともある。スムーズに日常を動かすために嘘が必要な時もある。おそらく、皆さんにも、日常で定期的にそんな嘘をつく機会があるのではないだろうか?
だが、どうだろう。そんな日常的につく嘘ではなくて、一世一代の大嘘を皆さんはついたことがあるのだろうか? 私はない。「嘘つきは殿様のはじまり」は、そんな大嘘をつかざるを得なかった女とその女を守ると決めた男の物語である。
冒頭の紹介
主人公の小太郎とおしんは幼馴染で夫婦の約束を交わした間柄だ。しかし、おしんは貧しさから身を売られてしまう。
「私を助けてくれる?」とおしんから聞かれた小太郎は、「僕にはできないよ」と答えてしまう。小太郎は母親のことを考えてしまう。浪人の末に父親が倒れた。それからというもの、内職をしながら自分を育ててくれた母親をただ一人置いて逃げてしまってもよいのかと。
しかし、そんな小太郎に母親は厳しく言う。「こちらを向きなさい小太郎。これは亡き父上の脇差です。選びなさい・・・・・・ 刀か・・・鳥かごか。刀が嫌なら無理強いはしません。親子二人で鳥かごを編み、つつましく暮らすのもよいでしょう。ただ、武士の子としてその刀を選ぶなら・・・ 幼少より共に育ち、末は夫婦と誓った女子を・・・ 見捨ててはいけません」
「あなたが今までどんな人間だったかよりもね・・・ これからどう生きていくかのほうが大事なの。私のことは心配しないで、あなたが行きたい道を進みなさい。選ぶのです小太郎」と、母親は選択肢を残しながらも、小太郎に武士としての生き方を教え導く。
「僕は・・・ おしんを護れる武士になりたい」と小太郎は武士としての覚悟を決めて、おしんをつれて逃げようとするが・・・・・・。
しかし、敵が目の前に立ちはだかり、小太郎は切られてしまう。小太郎とおしんはどうなるのか?
城中で小太郎は気が付く。小太郎は生きており、おしんは殿様になっていた。おしんは、河内8万石高城家を継ぐことになったのだ。跡取りがいないため、男として生きていくことなる。そう、嘘をつかざるを得ない状況に巻き込まれたのである。果たして、小太郎はおしんを守り抜くことができるのであろうか?
評価・批評
このような漫画は私は好きである。あつくなる。
この漫画は、「男の成長物語」であり、かつ「幼馴染ものの恋愛物語」である。抗うことができない運命に弄ばれる小太郎とおしん。2人の子供には、自分たちの力でこの状況から逃げ出すことはできない。それ故に、現状に対応しようと小太郎は頑張る。小太郎は、おしんを守ると誓い、命がけで成長する。そして、おしんに危害が加えられようとするときには死を賭してそれを守ろうとする。それは、すべてかつての誓いのためにである。
環境を変えようとする努力は大切である。しかし、時には、環境に合わせて自分が変わらなくてはならない。いや、おそらく後者の方が格段に多い。
そんな思いに駆られている人にはこの漫画はおすすめできる。将来を誓った幼馴染のために命がけで変化していく男のいじと覚悟がこの漫画からは溢れ出している。
葉隠で山本常朝が「秘める恋」の偉大さを語っている
見せるだけが恋ではない
現在、「ありのまま」であるとか「飾らない」であるとか、本来の素の自分をさらけ出すことがよいという風潮がある。しかし、日本人の美意識は、心のうちに秘めるというのが本来である。それは、恋愛においてもそうである。現代の日本人は、「愛している」・「好きだ」とか恋愛において自分をさらけ出しすぎているが、そうではなくて、心に秘めることこそ真の恋なのである。
恋の至極は逢わぬこと
そして、およそ300年も昔の人間がそれを喝破している。「葉隠」の山本常朝である。
「葉隠」は、山本常朝による武士道の聖典であり、人生の指南書である。「新篇葉隠」によると、「『武士道の聖典』とされており、激烈な狂気を例産している一方で、きわめて常識的な処世の知恵をも教えている『人生の指南書』」でもある。
「新篇葉隠」によると「葉隠」は人生の指南書でもある。そして、人生の指南は恋愛の指南にも及んでいる。それが、「恋の至極は逢わぬこと」(新篇葉隠による)という一節である。その一節を下記に記述する。
「先ごろ、集まった人たちに話したことだが、恋の極まるところは、心に秘めた恋であると見きわめた。叶えてしまえば、それだけのことで、つまらないものになってしまう。一生、心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋であろう。歌に、『恋死なむ後の煙にそれと知れ 終ひにもらさむ中の思ひを』とある。私がこれこそ至上の恋であろうといったところ、感心した人たちが四、五人いて、『煙仲間だな』ということになった」
山本常朝から我々への贈り物
この言葉は、山本常朝から、我々つまり「非リア充」への贈り物なのではなかろうか?
この一節は、山本常朝自身を納得させるものでもあり、武士という社会でうまくいきていくために必要な生き方を示している。
武家では、恋愛からの結婚はなかったし、それが当たり前であった。武家は家同士で話し合って結婚を決めていた。そして、それは当たり前であった。自由恋愛による結婚を現代日本人が当たり前であるとするように、その当時の武士にとって、家同士で話し合って結婚を決めるのは当たり前であった。
山本常朝についてもそれは例外ではない。そういった武家の掟の中で優先させるべきは自己であるはずがない。「心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋」と言い切った方が、武家社会の中でうまく生きられるし、自己を納得させられる。そうこれは、自己の恋愛より優先させるべきことがある中で、山本常朝が語った言葉なのである。
「非リア充」にも、自己の恋愛より優先させるべきことがある。それは、社会から抹殺されないことだ。「リア充」は、どんなに恋愛をしても正当化されるし、社会的に許される。しかし、「非リア充」はそうではない。学校という社会の中で「非リア充」が恋愛をしようものなら、彼はそこから抹殺されるであろう。学校という社会を出た後も「非リア充」は恋愛にうつつをぬかしてはいられない。恋愛にうつつをむかしていては社会で自己を守れないからである。「非リア充」は、「リア充」が社会を悠々と泳ぎ さらに恋愛をしているのを横目に見ながら、自己を守るだけで精いっぱいなのである。
そんな我々にこの一節は、ひどく心にしみる。そう恋愛だけが全てではないと、固く誓って生きている「非リア充」にとって、「心に秘めて焦がれ死にすることこそ、真の恋」というのは生き方の指針になる言葉である。そして、結果的にそれは日本人の美意識に合った生き方ともなるのである。
人生の目標? まずは、自己の価値観をみさだめるのじゃ!?
この記事では、自己の価値観をどのように書き出すかを紹介する。
自己の価値観をなぜ知る必要があるのか?
「自己の価値観」を理解できないと人生の目標は立てられない。人生には、目標があると刺激がでるという。その目標を達成するためには、やみくもに突き進むのではなく、適切なスケジューリングが必要となってくる。しかしながら、「自己の価値観」をまずは見定めないことには目標を立てることも難しい。「自己の価値観」というのは、自分が人生で何を重要視するかということであるからである。つまり、何を重要視するかを客観的に理解できていないと、人生の目標など立てられるはずがない。
「自己の価値観」の書き出し方法
「自己の価値観」を書き出すためには、自分があこがれている人をあこがれている理由を書き出し、そこから、「自己の価値観」を書き出す方法が有効だ。その方法が下記である。
- あこがれている人をピックアップする
- あこがれている理由を書き出していく
- 全員終わったところで分類分けする
- 自分の意見を付け足す
具体的流れ
あこがれている人のピックアップ
- Aさん
- Bさん
あこがれている理由
~Aさん~
- 論理的・努力家・目標を持っている・目標を極めようとする意志がある・自分の最も得意とする分野以外にも専門領域がある・語れる・書ける・聞ける・論じれる
- 人を知っている・場を改善する方法を知っているし、改善する努力を惜しまない・個人よりやや集団を重視する
~Bさん~
- 論理的・努力家・目標を持っている・目標を極めようとする意志がある・語れる・書ける・聞ける・論じれる・専門を極めようとしている
- 合理的・集団よりやや個人主義的
分類分け
~能力など~
- 論理的・努力家・目標を持っている・目標を極めようとする意志がある・自分の最も得意とする分野以外にも専門領域がある・語れる・書ける・聞ける・論じれる
- 自分の最も得意とする分野以外にも専門領域がある
~人間的な性質~
- 人を知っている・場を改善する方法を知っているし、改善する努力を惜しまない・個人よりやや集団を重視する
- 合理的・集団よりやや個人主義的
自分の意見
能力的には、全体的に自分の価値観にあっている。しかし、何か一つに集中するよりは、いくつかの専門領域を持ちたいという気持ちが大きい。
人間的な性質では、個人主義というより集団主義が好きだ。しかし、自分にあっているのは個人主義である。そして、人間とか場を扱えるというスキルは本当に尊敬する(自分にないが故に)。自己だけの利益というよりは、共同の利益の方も大切にしたいと考えている(両方大事)。
締め
今回は、あこがれの人を知ることで「自己の価値観」を知る方法を紹介した。どうだったであろうか、少しは、「自己の価値観」を書き出すことができただろうか? では、また。
私が猫をほしくなった理由(後)
前回記事では、「私が猫をほしくなった理由(前) - みかん時々坊っちゃん」と題して、28歳になるまでの私と猫の接点について主に記述した。本記事では、なぜ人が猫をほしくなるのか? そして、なぜ私が猫をほしがるのかを記述していく。
人が猫をほしがる理由
人はなぜ猫をほしがるのだろうか? 一般的に言って猫は「気まぐれだ」とか「わがままだ」とか言われている。この形容を聞いただけで、「じゃあ猫でなくて犬でいいや」と皆思いそうなものである。しかし、犬派によって犬は熱狂的に愛されているように、猫は、猫派によって溺愛されている。これはなぜなのだろうか? そんな根本的な問いに答えていきたい。
猫は、「気まぐれだ」とか「わがまま」だと聞いたことはあるが、飼ったことも調べたこともないので実際はどうだか分からない。そこで、まず、調査した結果を下記に羅列する。
- 干渉される事が嫌い
- 集団行動はどちらかと言うと苦手
- 自由奔放
- 愛想がない
- 甘え上手(自分の欲望を欲するときには甘え上手になる)
次に、上記に羅列した猫の特徴を犬派になった気持ちで批判していく。
- 面倒くさい
- 好きで買ったので多少干渉したいのがだ、そんなにあからさまに嫌うなんて・・・
- 芸を仕込みたいのに・・・
- しっぽを振って愛想よくすり寄ってきてほしい
- 自分本位すぎるな
最後に、猫派になった気持ちで犬派からの批判を論駁していく。
- 猫ちゃんは、空気のような存在であり水のような存在だ。つまり、猫ちゃんの慈悲にすがって人間は生きているのであって、我々がどうこうするとかそんな存在ではない
- 必要最低限のこと(トイレの場所は覚える)はこなす。猫ちゃんのその自由奔放さがよいのだから、必要以上に拘束することは避けるべきだ
- 人間でないのだから猫ちゃんに愛想はいらない
- 利己的であってもよい。たまに見せるそのしぐさが素敵なのさ
私が猫をほしがる理由
私はなぜ猫をほしがるのだろうか?
「私が猫をほしくなった理由(前) - みかん時々坊っちゃん」で記述したように、猫との出会いと別れ・青島を知る・某著述家の猫溺愛発言などがあり、心理に猫が住み着いたことも猫を私がほしがる一因となっているといえる。
それとは別に、「自由奔放さ」へのあこがれも猫をほしがる原因のひとつになっていると思う。
高校時代に、あこがれている人物が私にはいた。彼はそう「自由奔放さ」を持っていた。何かは分からないが、彼は、自分の行動を決める原理のようなものを持ち合わせていて、それにしたがって行動していた。他人の意見に影響されて私は行動してしまっていたのだが、彼はそうではなかった。当時の私には持ち得ていないものを彼は持っていた。ないものを持ち合わせていた彼に私はあこがれていたのだ。
今もその「自由奔放さ」へのあこがれは多少なりとも残っている。そして、そのあこがれを猫にだぶらしている。だからこそ、猫がほしいと、より能動的に思うのだろう。また、あこがれの人物は高校を卒業して以来、音信不通であり、どこで何をしているのかは分からない。「自由奔放さ」を発揮して、自由に世を泳いでいる彼を見られない。その分を少しでも猫で補完したいと感じているのかもしれない。